株式会社シーラテクノロジーズCEOの杉本宏之さん。
20歳から歩合の不動産営業マンとして身を立て、若くして独立し若くして会社を急成長させた不動産業界では有名な起業家ですね。
そんな杉本宏之の生い立ちが壮絶すぎるとの噂があります。
また、彼の父親はどのような人物だったのでしょうか?
調べてみると杉本宏之さんは父親に包丁で刺された過去があるとか!?
そこで今回は、杉本宏之さんについての・・
- 父親について
- 生い立ちはどのようなものだったのか?
について調べてみました!
杉本宏之プロフィール
杉本宏之さんのプロフィールは以下の通り
生年月日:1977年6月5日
年齢:46歳(2023年現在)
出身校:川崎総合科学高等学校情報工学科
職業:起業家
株式会社シーラテクノロジーズCEOなど多数
杉本宏之の父親はどんな人?
杉本宏之さんの父親は、不動産会社を経営していました。
しかし、杉本宏之さんが生誕した直後に父親の経営方針に納得がいかない専務がなんと社員を連れて独立しました。
その後父親の会社は倒産・・・。
その後杉本宏之さんの父親は不動産のブローカーとして働き始めましたがなかなか軌道に乗らず借金まみれの生活になっていきました。
各地を転々とする生活が続き杉本宏之さんが3歳の時に埼玉県川口市に流れ着いたとのことでした。
昔、私の父は小さな不動産会社を経営していました。かなりのワンマン経営者だったらしいのですが、事業はけっこううまくいっていたようです。しかし私が生まれた直後に、父の経営方針に異を唱える専務の謀反が起こり、社員を引き連れて独立。結局、父の会社は倒産してしまいます。その後父は不動産ブローカーとして働き始めましたが、それもなかなか長続きせず、借金はどんどん増え、何かに追われながら私たち家族3人は各地を転々と……。そして埼玉県川口市に流れ着いたのが、私が3歳のときでした。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
そして、バブルが崩壊してついに生活保護を受けることになったのです。
杉本宏之さんの父親は元は不動産会社経営者でしたが、社内の謀反により会社が倒産。
バブル崩壊と共に生活保護を受けるまでに陥った不運な人物でした。
杉本宏之は父親に刺された過去があった!
杉本宏之さんは高校時代に父親と口論になり包丁で刺された過去をインタビューで述懐しております。
定職を持たずに気ままな生活を送っていた父親と取っ組み合いのケンカになったのです。
理由は、生活保護のお金を使い果たし、杉本宏之さんのアルバイト代に手を付けようとした為です。
と父を一喝したところ取っ組み合いのケンカに・・・。
そうすると、父親は台所から包丁を持ち出して、、
と言ってきたのです。
刺せるもんなら刺してみろ!
と言った瞬間、左手を父親に刺されて杉本宏之さんは流血。
父親は我に返り涙目で立ち尽くす姿をみて杉本宏之さんは
と自分の人生を真剣に考えるようになったということです。
そのとき父もかなり追い詰められていたのでしょう。台所から包丁を持ち出してきた父は、「お前を刺して俺も死ぬ!」。「脅しか!刺せるもんなら刺してみろ!」と父に向かって叫んだ瞬間……。私の左手から真っ赤な血が畳の上に滴り落ちているのが見えました。血だらけになった私を見て、父も我に返ったようです。父は、涙目で震えながらただ呆然と立ち尽くしています。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
このような壮絶な父親との過去をもつ杉本宏之さんの生い立ちとはどのようなものだったのでしょうか?
杉本宏之の生い立ちについて
杉本宏之さんの生い立ちについてインタビュー記事をもとにまとめてみました。
生い立ち:幼少期~学生時代
前述のとおり3歳で埼玉県川口市にたどり着いた杉本宏之さんは小学生になると神奈川県川崎市に移り住みます。
その当時は「風呂無しアパート暮らし」だったようで、当時の苦しい生活が窺い知るコメントをされております。
借金はどんどん増え、何かに追われながら私たち家族3人は各地を転々と……。そして埼玉県川口市に流れ着いたのが、私が3歳のときでした。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
杉本宏之さんは小学2年のころ大きな事故に遭ってしまい、左足の甲に傷を負い現在でも左足の指が動かなくなってしまいました。
なんとか松葉杖がなくても歩けるようにはなりましたが、今でも私の左足の指は動かないままです。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
更に中学2年の時に母親が末期の胃がんに冒され他界してしまいます。
結局、末期の胃ガンに冒されていることがわかり、2カ月後に亡くなってしまいます。最愛の母がいなくなった……。そのときの悲しみは今も忘れられません。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
高校時代はバイトに明け暮れ、不良グループのNO.2となっていました。
バイクグループの「死ね死ね団」というチームに入っており16歳の時に死にかけているそうです。
貧乏な人生に悲観し前述した父親との包丁で刺されるケンカなどもおきたことで、真剣に進路を考え始め不良グループからも脱退しました。
そして勉強に励み通信制の大学にも合格しましたが、早く社会人として働きたかったようで奨学金で宅建のとれる専門学校に入学しました。
専門学校時代時代
専門学校に進学してからはバイトの稼ぎも増えて洋服を買ったり、サーフィンをしたり普通の生活が送れるようになりました。
そして、遊んでばかりいたことを反省して猛勉強して1年目で宅建試験を取得することが出来たのです!
新しい彼女ができたり。これまで考えられなかったような普通で平和な(笑)生活が続きました。「俺は遊ぶために学校に通っているんじゃない!」と反省し、猛勉強を開始。結果、本試験では42点の得点を取って、見事1年目で宅建資格を取得することができました。今も昔もそうですが、窮地に追い込まれてからが強いんですよね、私は(笑)。
引用:引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
その後、早く働きたかった杉本宏之さんは就職活動をスタートしました、そこで求人情報誌で見つけた“投資用ワンルームマンション”の販売会社の面接を受けることにしたそうです。
面接には・・・
- 友人から拝借したJプレスの紺色のスーツ
- 靴は黒のエナメル
- しかもいきなり遅刻
でいったそうです(笑)。
との苦しい言い訳をしましたが、、
そんな状況でも
とやる気を猛アピールしてなんと見事合格したのでした。
まあ社会人としてはありえない理由ですよね。それでも面接はしてくれまして、やる気を猛アピール。「まだ学生ですが、受かったら学校は辞めます!」。結果、面接の翌日にめでたく合格の連絡を受け取り、私は宣言どおり学校を自主退学し、不動産業界の会社員となったのです。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
不動産営業マン時代
20歳で不動産の営業マンとなった杉本宏之さんは完全歩合制の世界で必ずトップをとると意気込みます。
入社半年まで契約が取れず上司からも「お前は期待外れだったかもな。」などと言われ苦しい状況が続きましたが、それでもあきらめず努力を積み貸せ寝ていった結果3年でトップセールスマンとなりました。
その時の年収はなんと・・・
もあったそうです。
衝撃でした。ある先輩が電話口で「はい。では、判子をご用意しておいていただけますか」と話しています。そして電話を切ったその先輩が言うのです。「よし、これで歩合45万円稼いだぜ!」と。これまで1月死ぬ気でバイトして20万円稼げば上々だった私は、「すげー、これが不動産の世界か……」と、俄然やる気になりました。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
22歳のころには・・
- ベンツのオープンカーに乗る
- 恵比寿の高級マンション購入
- 六本木のキャバクラや銀座の高級クラブ通い
など豪遊し金銭感覚がバグってしまいまいた。
不遇の幼少期の反動なのかもしれませんね・・・。
22歳、同い年の人はまだ大学生の年齢です。そんな年端もいかない若造が、ベンツのオープンカーと恵比寿のマンションを購入し、六本木のキャバクラや銀座の高級クラブに通いまくる。今思えば、ちょっと狂ってましたね。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
その後最年少の管理職となり、新人2人を見ることになりました。
しかし、その新人2人は・・・
という最悪な新人たちでした。
しかし、何とか説得して管理職人生をスタートさせた杉本さん。
現在その新人2人は現在、株式会社エスグラントコーポレーションの管理職として働いているそうです。
その後、最年少の管理職となり、新人2人のメンバーをマネジメントすることに。しかもこの2人が最悪でした。最初の面談で、ひとりは「僕、杉本さんが嫌いなんですよ。威圧的だから」。さらにもうひとりは「実は営業に向いていないから辞めようと思ってるんです」と言うわけです。もう諦めの境地ですよ(笑)。それでも、ふたりをなんとか説得して、私の管理職人生はスタートを切りました。ちなみにこのふたりは現在、株式会社エスグラントコーポレーションの管理職として頑張ってくれています。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
そんな状況のなか杉本さんは海外のデザイナーズマンションを見学しているうちに、日本のワンルームマンションが画一的でかっこ悪いと感じて、、
と上司に進言します。
しかし、上司の反応は否定的でした。
この時初めて「独立したい!」という願望が芽生えたそうです。
「自分が売りたいのはこれじゃない。デザイナーズマンションを企画して売ってみたい」と思うように。その後、休日を使ってデザイナーズマンション企画のプレゼン資料を作成し、社長に直談判します。が、その答えはNO。「仮にやったとしても原価が上がるから、お前たちの歩合も減ることになるぞ」と。私はデザインでバリューアップさせることで、賃料もアップでき、売価も上げることができると考えていたのですが、その点を全く理解してくれないのです。このとき初めて、「独立して自分でやろうかな」という考えが生まれました。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
2001年9月ラスベガスに滞在していた杉本さんは同時多発テロ事件の報道をみて、、
と感じて背中を押されて独立してデザイナーズマンションを販売する会社を設立。
起業家として新たなスタートをきったのです。
2001年の9月、私は会社の視察旅行でラスベガスに滞在していました。そして、あの9・11同時多発テロが勃発し、多くの方々が突然命を奪われたのです。「人間の人生ってはかないものだな……」。これが直接のきっかけではありませんが、背中を押されたのは確かです。帰国した9月末、私は独立してデザイナーズマンションを企画販売する会社を設立することを決意。2001年12月、株式会社エスグラントコーポレーションを設立します。24歳、私の新しい挑戦が始まりました。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
杉本さんが24歳の時でした。
株式会社エスグラントコーポレーションを設立
株式会社エスグラントコーポレーションを設立当時Tさんという経営者から2400万円の支援をうけましたが、どんどん資本金が無くなっていき半年後には会社の口座残高は10万円台になったそうです。。
その理由は、当然で前職と同じ給料を社員に支払い、1物件決まるとキャバクラで豪遊していたからでした。。
もう一度Tさんに土下座をして激怒されながらも1500万円を借りることができました。
そこから社員に助けられながらぐんぐん業績は伸びてゆき自社ブランドのマンションも完売できるほどの成長を遂げました。
当然、Tさんは超激怒。ものすごい罵倒を受けながら、それでも土下座してお願いして最終的には1500万円を借り受けることに成功します。しかし、「これは出資ではなく融資や。株も買い取れ!お前と出会ったのが運の尽きや……」。この言葉が私の胸に突き刺さりました。その翌日、私はスタッフ全員に会社が倒産寸前であることを初めて伝えました。何人かは辞めるだろうと覚悟していたのですが、逆に全員が「ここまできたらやるしかないですよ!」と。その上、数カ月前に支給したボーナスを「大変なこの時期に、僕らだけもらうわけにはいきません。お返しします」と。感動をこらえきれず、私は初めてメンバーの前で号泣しました。
それからは社内にものすごい一体感が生まれ、エスグラントはぐんぐん業績を伸ばし続けます。そして、復活を遂げたエスグラントの1期目の決算は、売上高7億円、経常利益23万円という結果を残すことができました。そして2002年10月、ついに私たちは初めて1棟での仕入れに成功。自社ブランド物件として売り出した「ラグジュアリーアパートメント浅草橋」は、なんと発売から2週間を待たずに完売。「ワンルームのデザイナーズマンションは必ず市場から受け入れられる」。創業以来思い続けてきたこの思いは、確信に変わりつつありました。
引用:https://www.dreamgate.gr.jp/contents/case/interview/35100
リーマンショックにより破産
上場後もワンルームマンションの事業に加えて不動産売買なども手掛けて順調に売り上げを伸ばしてきましたが、2008年のリーマンショックの煽りを受けて約400億円の負債を抱え、自己破産に追い込まれました。
そして再び企業
しかし、杉本さんは2010年に再度企業をして再び起業家として揺るがぬ成功を収めたのでした。
シーラテクノロジーズは本日、米国ナスダック市場に上場しました。⁰僕達の明確なビジョン、テクノロジー、そしてモノづくりへの情熱が米国の投資家にも届き、時価総額243億円という評価を頂きました。
ここから不動産クラファン世界No. 1シェアを目指して頑張りたいと思います。 pic.twitter.com/NhZEV3qH1h— 杉本宏之 (@sugimotosyla) March 31, 2023
- 2010年(平成22年) – 株式会社シーラホールディングスを創業。エスグラントコーポレーション時代に交流があった同世代の起業家4人の協力により資金を調達。
- 2014年(平成26年) – 増資
- 2019年(令和元年) – グループ会社7社、売上高160億円を超えるまでに成長している。
- 2022年(令和4年)
- 7月 – 株式会社シーラテクノロジーズに社名変更。
- 10月 – 不動産クラウドファンディングサービス「利回りくん」が、国内不動産クラウドファンディング市場において会員数日本一を突破し、会員登録数国内No.1の不動産クラウドファンディングとなる。
- 2023年(令和5年)
- 2月 – 不動産クラウドファンディングサービス「利回りくん」の会員数が25万人を超える。
- 3月31日 – 米国NASDAQ市場へ上場。
- 4月 – 売上高220億円を突破
- 8月 – 会員数26万4000人を突破。不動産クラウドファンディングにおける会員数が国内第1位、世界第3位となる(世界第1位はアメリカ・Fundriseの40万人)。
引用:Wikipedia
現在はテレビのコメンテーターなどでも大活躍の杉本さん。
揺るがぬ地位を確立したこれからの活動に注目があつまります。
以上、起業家杉本宏之さんの父親と生い立ちについてのまとめでした。