戦後初めて元首相で『国葬』が執り行われた『吉田茂』。
今回は、吉田茂元首相の『国葬』について・・・
- いつ行われたのか?
- なぜ行われたのか?
- 吉田茂の功績は?
- 学校会社は休みだったのか?
- 費用はいくらかかったのか?
について調べてみました。
吉田茂の国葬はいつ行われた?
吉田茂の国葬は・・・
1967年(昭和42年)10月31日
に行われました。
亡くなられたのは同年10月20日。
亡くなられてからわずか10日ほどで国葬が行なわれました。
場所は、神奈川県大磯の自宅でした。
年齢は89歳。
お墓は東京港区の青山霊園にあります。
※麻生太郎氏は吉田茂の孫にあたる。(画像引用:時事ドットコム)
※ウィキペディアより
- 1967年(昭和42年)10月20日 – 神奈川県大磯の私邸で永眠(89歳)
- 10月31日 – 国葬(戦後初)。墓所は港区の青山霊園
吉田茂の国葬理由は?
吉田茂が国葬になった理由はどのようなものだったのでしょうか?
以下に理由を調べてみました。
理由の1つとして長期にわたり政権を運営し国民に指示されていた背景があったようです。
吉田茂の政権期間を調べてみました。
吉田茂の政権期間は?
画像引用:nippon.com
吉田茂政権の期間は以下の通り。
- 昭和21年(1946)5月に第一次吉田茂内閣が成立
- 内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)
- 日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人
- 内閣総理大臣在任期間は2616日(約7年)
このように長きにわたり国民の支持を得ていたことが国葬が行われる理由の一つと考えられます。
次に吉田茂の主な功績について調べてみました。
吉田茂の功績は?
戦後復興を進めた吉田氏の功績は多くの国民が認めるところです。
地方公務員法の施行や覚せい剤取締法の公布・施行など数多くの政策を断行してきた吉田茂の主な功績を3つ紹介します。
吉田茂功績①:サンフランシスコ平和条約
吉田茂の功績主な功績としてあげられるのが・・・
サンフランシスコ平和条約
第2次世界対戦に敗戦し、欧米諸国に占領された日本。
この占領の終止符をうったのがサンフランシスコ平和条約です。
第三次吉田茂内閣時に日本国と48ヶ国によって調印されました。
サンフランシスコ平和条約とは、第二次世界大戦後の平和条約で、日本国と連合国各国の平和条約である。この条約の発効により、連合国による占領は終わり、日本国は主権を回復した。1951年9月8日調印、1952年4月28日発効。
第三次吉田茂内閣は、単独講和に踏み切った。1951年9月8日、アメリカ合衆国のサンフランシスコで講和会議が開かれ、日本国と48ヶ国によってサンフランシスコ平和条約に調印された。
※引用:https://ja.wikibooks.org/wiki/
吉田茂の功績②:日米安全保障条約への調印
サンフランシスコ平和条約を締結した同日に日米安全保障条約に調印したことも吉田茂政権の功績として知られています。
アメリカ軍だけは「日米安全保障条約」の規定に従い、「占領軍」から「在日米軍」と呼称を変え、その後も日本に駐留することとなります。独立した後も日本はアメリカの重要な拠点であり続けることとなるのです。
1951年に結ばれた「日米安全保障条約」は、アメリカによる日本の防衛義務が明記されていないほか、日本で内乱が発生した場合にアメリカ軍が出動できるようになっていました。これを問題視した岸信介内閣総理大臣は、1960年に条約を改定しました。改定後は新旧を区別できるよう「旧安保」「新安保」と呼ばれています。
冷戦が終結した後も、「日米防衛協力のための指針」という防衛協力の在り方を具体的に定めたガイドラインをもとに、国際情勢の変化に対応しながら今日にまで継続しています。
引用:https://honcierge.jp/articles/shelf_story/6786
吉田茂の功績③:日本国憲法の制定
吉田茂は、日本国憲法の制定も行いました。
日本国憲法の制定は、1946年11月3日。
たとえば、国民の表現の自由を守るため、憲法21条は「…表現の自由は、これを保障する」と定めて、国に対し、国民の表現活動を侵してはならないと縛りをかけているのです(これが「基本的人権の保障」です。)。
このように、国民が制定した憲法によって国家権力を制限し、人権保障をはかることを「立憲主義」といい、憲法について最も基本的で大切な考え方です。
このような功績を取り上げられ吉田茂国葬が行われたのです。
学校会社は休みだった?
吉田茂国葬の時は学校や会社は休みだったのでしょうか?
政府として、吉田茂の国葬のときは・・・
午後半休要請
だったようです。
しかし、実際に午後半休にした会社は少なく日教組からも抗議が届いていたようです。
ちなみに・・・
- 公営ギャンブルの中止
- ドラマや歌謡ショー、CMの中止
などが行なわれたようです。
1967年10月25日付の朝日新聞朝刊(東京本社版)によると、政府は当時、国葬当日の午後について、官公庁は業務に差し障りのない程度に職員を早退させ、国公立の小、中、高校、大学も午後は休校としたという。民間の学校や企業もこれにならうよう要請し、一般家庭にも当日弔旗を掲げ、午後2時前後に1分間の黙祷をするよう要請したという。
また、「競馬や競輪、オートレース、競艇などの公営ギャンブルは当日は開かないと決めた」といい、「NHKと民放連でも当日、ラジオ、テレビの番組を一部変更」し、「葬儀の前後、国葬にふさわしくないと思われるドラマ、歌謡ショー、CMなどはやめる」と報じている。
これに対し、1967年10月26日朝刊(東京本社版)によると、「民間会社や団体は大半が通常通り業務を続け、官公庁のように『午後から業務に差し障りのない程度に早退させる』ことはほとんど考えていない」と報じ、政府が学校の午後の授業を取りやめる方針を決めたことについて、全国の教員や学校職員による労働組合の連合体「日本教職員組合(日教組)」が抗議声明を出したと報じている。
引用:ハフポスト
かかった費用はいくら?
吉田茂の国葬でかかった費用は・・・
1810万
でした。
現在の消費者物価指数では約4.2倍相当なので現在の金額価値にすると・・・
約7600万円といったところでしょうか?
企業物価指数を見ると、令和3年の物価は昭和40年の約2.1倍なので、昭和40年の1万円は令和3年の約2.1万円に相当する計算になります。また、消費者物価指数では約4.2倍なので、約4.2万円に相当するという計算になります
※引用:日本銀行
まとめ
以上、吉田茂の国葬の情報をまとめました。
- 実施は1967年(昭和42年)10月31日
- 功績はサンフランシスコ平和条約など
- 学校や会社は午後半休だった。
- 費用は当時の金額で1810万円